「データからどのように読み取り、どのように施策に落とすかで、足踏みしている」
このようなことを仰った、某企業の経営企画室長の方がいました。
データをただ取得しただ「見える化」しただけでは、何もいいことは起こりません。
データから何を読み取り、どのように「解釈」し、そして未来に繋げるためにどのようなアクションをすべきを、考える必要があります。
データを「見える化」した後の最初の壁が「解釈」です。データから読み取った「事実」をもとに、どのように「解釈」すべきか、という問題です。
パウエルの消せない過ち
2003年のイラク戦争へと踏む出すきっかけの一つになった、当時の米国のパウエル国務長官の国連演説があります。
その演説で、パウエル国務長官は「イラクに大量破壊兵器が存在する」と言及しました。
2001年の同時多発テロの影響もあり、イラクが大量破壊兵器を保有しているなら攻撃すべしという、国民感情が少なからずあったこと、イラク自体が査察団に対し非協力的だったこと、そして間違った情報を鵜呑みにしたことなどが、そう判断させた背景にあります。
パウエル氏は、後にこのことを「消せない過ち」と自伝で述べています。
問題は、「イラクが大量破壊兵器の製造装置をトラックに積んでいた」という間違った情報を鵜呑みにしたことです。
限られた時間の中で結論を出さないとき、得られている情報が限られています。
限られた時間の中で限られた情報をもとに判断をするとき、得られたデータなどの情報から、どのような「事実」を「確度の高い事実」としてとらえるのかが重要になっています。
これ反省から、パウエルの情報四か条というものが存在します。
パウエルの情報四か条
以下の四か条を、国の軍や情報などの関係者が、壁などに張って教訓にしています。
- 分かっていることを言え
- 分かっていないことを言え
- その上で、どう考えるのかを言え
- この3つを区別しろ
出典:コリン・パウエル等著『リーダーを目指す人の心得』
データ活用という視点で考えると、データ分析結果から得られた「事実」が「分かっていること」です。
しかし、データから導き出される「事実」は限られています。多くの事実はデータに現れませんし、そもそもデータとして収集しきれていません。このような、データから得られていない「事実」が「分かっていないこと」です。
要するに、データの裏付けのある「事実」が「分かっていること」、データの裏付けのない「事実」が「分かっていないこと」です。
パウエル氏のケースの場合、「イラクが大量破壊兵器の製造装置をトラックに積んでいた」というのはデータの裏付けの乏しい「事実」、つまり、「分かっていないこと」だったのです。
データから「事実」を把握し後に「解釈」をしなければなりません。そのとき、「分かっていること」(データの裏付けのある「事実」)と「分かっていないこと」(データの裏付けのない「事実」)から「解釈」する必要があります。
その「解釈」が、パウエルの四か条の「どう考えるのか」に該当します。
この3つを明確に区別しろという教訓です。
事実誤認の可能性を減らすことが最重要
パウエル氏の過ちは、「イラクが大量破壊兵器の製造装置をトラックに積んでいた」というのはデータの裏付けの乏しい「事実」を、「分かっていること」(データの裏付けのある「事実」)としてしまったことです。そのことが前提で「解釈」をしてしまったことにあります。
このようなことを、事実誤認と言います。本当かどうかわからない事実を、事実として扱ってしまうことです。
多くの企業でも、こういうケースはあるのではないでしょうか。
データの根拠が乏しいのに、既成事実化していることや、当然のこととして扱われている事実です。よくよく調べてみると、根拠になりえるようなデータがほとんどないのです。
多くの場合は、思い込みです。本人にとっては事実でも、それは本人の心の中の事実であって、客観的な事実ではありません。
では、「分かっていないこと」(データの裏付けのない「事実」)は悪なのかと言うと、そうではありません。
過ちは誰にでもあります。重要なのは、「分かっていること」(データの裏付けのある「事実」)と「分かっていないこと」(データの裏付けのない「事実」)、そして「分かっていること」と「分かっていないこと」をもとに「どう考えるたのか」(「解釈」)を明確に区別することです。
少なくとも、「分かっていないこと」(データの裏付けのない「事実」)を最大の根拠にしてはいけないということです。
「分かっていないこと」が解釈を促す
データ活用と考えると、どうしてもデータを集計したり分析した結果をもとに「事実」を整理し「解釈」しがちです。つまり、「分かっていること」(データの裏付けのある「事実」)だけで、「解釈」しようとしてしまいます。そして、多くの場合「解釈」できずに悩みます。
なぜならば、データから導き出される「事実」は限られており、多くの事実はデータに現れないからです。「分かっていないこと」(データの裏付けのない「事実」)がないことには、「解釈」が非常に難しくなります。「分かっていること」(データの裏付けのある「事実」)だけで考えるとは、例えば10,000ピースのジグソーパズルで、100ピースしか揃っていない時点で全体像を見るかのようです。
「事実」を整理する段階で最も重要なのが、「分かっていないこと」(データの裏付けのない「事実」)の把握です。「分かっていること」(データの裏付けのある「事実」)を把握する以上に重要です。
要するに、「データの裏付けが取れたこと」は何で、「データの裏付けのとれなかった不明なこと」は何か、を明確に分けて把握することです。
再度述べますが、「解釈」するときに、データ分析結果などから導いた「事実」だけでは不可能です。
データは、単なる断片的な情報を与えてくるに過ぎません。データから得られた断片的な「事実」をつなぎ合わせる必要があります。データから得られた「事実」をつなぎ合わせるために必要となるのが、「分かっていないこと」(データの裏付けのない「事実」)なのです。
「分かっていないこと」(データの裏付けのない「事実」)を想像できないと、データから得られた「事実」を「解釈」することができません。
「分かっていないこと」という「仮説」がキーである
「分かっていないこと」(データの裏付けのない「事実」)を想像することは、データ活用をする上でキーとなる重要な知的活動なのです。
ちょっとかっこよく言うと、「分かっていないこと」(データの裏付けのない「事実」)を想像し明確化したものを「仮説」もしくは「仮置き」と言います。
データの「見える化」で止まっているケースの多くが、「分かっていないこと」(データの裏付けのない「事実」)を想像しない、もしくは、できないという問題があります。データの裏付けがある「事実」だけで、どうなっていたのかを「解釈」することは、ほぼ不可能です。
「分かっていないこと」(データの裏付けのない「事実」)を積極的に、意識して考える必要があります。
問題は、それを「分かっていないこと」(データの裏付けのない「事実」)を「分かっていること」(データの裏付けのある「事実」)と見なしてしまう、事実誤認です。この点に最大限の注意を払う必要があります。
要するに、最初にデータで把握すべき最重要なことは、「分かっていないこと」(データの裏付けのない「事実」)を把握することです。